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第五回 アーティスト/アートディレクター/映像ディレクター タナカノリユキ氏 Lively Life バックナンバー一覧
日常を見なくなる自分になりたくないから僕は、聖地をもたない
Lively Life
タナカノリユキ
part1
part2
part3

高級住宅街に突如現れる突起物のあるコンクリート打ちっぱなしの建物。これが、タナカノリユキさんの仕事場だ。外から見ただけでは、その構造はまったく不明。何件分の部屋が内蔵されているのか、想像もつかない。仕事場は、天井の高い吹き抜けと、床から悠に4メートルはあろうというガラス窓が特徴的な、開放感のある空間だ。その中に、自身の手によるソファや棚が雑然と、それでいて気持ちの良いリズムで配置されている。ここから、数多くのタナカさんのクリエーイティヴが世に送り出されてきたのだ。

 
 
クリエーティブの秘密は、取るに足らない日常の中にいっぱいある
 

僕は、聖地をもたないようにしているんです。というか、ないと思っている。「ファッションをやるのだったらパリだ」とか、「音楽だったらロンドンなんだ」とか、そういう感じはもたない。スペシャルに映画とか雑誌を見たりとか映像を見たりとかいうこともあまりしない。クリエーティブの秘密は、ものすごくくだらないものとか、取るに足らない日常だと思っている中にたぶんいっぱいあると思うんです。そのことを見なくなってしまうような自分に、ならないようにしている。旅をしていてもどこかに行かなければいけないとか、何かをしなければとか、遺跡や名所を見に行かなければいけないという感覚をもつこともあまりないんです。

例えば、あるものをずっと長い間見ていて、溝のゴミを拡大鏡で見たような感じを自分でドローイングし始めるとか、そういうことのほうが大切。そのほうが、おもしろいクリエーティブだったりするわけです。どこかのホテルの石と石との間にうずまっているところだけをドローイングしてみるとか……。日常空間にもけっこう見たことのないものってあるんです。髪の毛がバサバサッと落ちていったときの形とか、ゴミみたいに見えるものとか、窓から見えるちょっとしたガラスのひびの汚れとか。その形だけがすごくおもしろかったりする。どこにいたって、そういうものを見つけられる。普段から、もうちょっとよく見るとそれはあるのだけれど、だいたい普通はコップだけを見ていたり、テーブルを見ていたり、テレビを見ていたりすることが多いじゃないですか?

 
毎日見ているからということだけで、「見る」ということに鈍化してくる
 

もっと言うと、家から駅まで毎日歩くとします。ある人が30年間とか50年間、同じ場所を毎日歩いていて、「ここはいつも通っている道だ」と通っている道があるとする。でも、そこに寸分たがわず同じ足跡をつけることはたぶん一生かかってもできないと思うんですよ。同じに見える1歩でも前回と比べれば、0.1ミリとかずれていると思うんです。今までとまるっきり同じ形の足跡ができることはまずない。周りの空気も違うし、季節も違ったりするから、同じ行為はたぶんないんです。でも、人間は毎日そこに何かがあると、ここはいつもあるところだからとか、これは毎日見ているからということで、「見る」ということに対して鈍化してくるんです。気持ちとして見なくなってしまう。でも、たぶんいろいろなことが、本当はあるはずなんです。
たとえばインドやパリに行ったときには、街の看板から何から何までくまなく見てくる。初めてのところは目新しいからみんなが飛びつくけれど、それはあたりまえです。毎日生活するようになると見なくなる。でも、同じ行為は一回もないと思って見るようにすると、たぶんおもしろいことはいっぱいあると思います。

まず「最初によく見る」とか「見抜く」ということになってくると思うし、それで 「どう見るか」という話になることもあります。その視線とかも大切にし、構造も見抜いていくことになると思うんです。知っているものを目を閉じないで、見ていくということが大事なんじゃないですか。

 
 
「表現は、過去にやり尽くされている!?」 でも違う目で見れば同じものには決してならないんですよ
 

僕は意外とどこに行っても大丈夫。田舎でも大丈夫です。海外でもいい。それが一番大きい。それがなければ結局、どこに行っても同じことだと思うんです。東京にいてもそういうものをちゃんと見つけられるとか、自分の半径1キロぐらいのところで見つけるとか……。だから、人が退屈だと思いそうな場所に一日中ずっといても、僕はそこでたぶん絵を描いたり写真を撮ったりすることはできます。最近はちょっと減ったけれど、昔は道ばたにずっと立っていたりすることがよくありました。見えてくる形にすごく触発されるんですね。人間はその形が何なのかよくわからなくなったときに、意味を求めるわけではないけれど、想像するじゃないですか。わけのわからない形になればなるほどそれを追っていく。

表現というのは、既に過去いろいろやり尽くされているかもしれないのですが、いま の時代にもう一回同じことを違う目で見て、やったときには同じものには決してならないんですよ。「いま生きている人たちと何かコミュニケーションしよう」とか、「美術として成り立たせよう」みたいなことは、たぶん1930年代にも同じような形があったかもしれないし、もしかしたら60年代や80年代にもやっていたのかもしれない。でも、それは全く同じじゃないんですよ。アプローチの仕方で変わってくるはずなんです。

 
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アフターショット
アフターショット

ゲストのタナカノリユキ氏 カメラマンの桐島ローランド氏と

■桐島

今年、21世紀になったなんて全然思えないんですよ。まだ全然ピンと来ない。なんかいま一つ盛り上がらないんだよな。ミレニアムが盛り上がったというよりも、2000年問題で俺は盛り上がっていたから去年は。

■タナカ

1999年と2000年間のほうが盛り上がったよね。あのほうがプレッシャーがあったしね。かなり世紀末的なプレッシャーもあったじゃないですか。2000年問題とか、世の中はどうなってしまうのかという不安な要素があったんだよね。あの不安が抜けたか、あとはあまり変わらない。気持ちとしては抜けたものとか、何かそういうものに1票入れたいという感じはあるのだけれど、現実的にはあまりなんかね。21世紀の感覚はあまりないな。キリスト教圏のヨーロッパのほうがもっとあるのかな。

■桐島

向こうもそんなに盛り上がらなかったみたい。去年のほうが盛り上がっていたね。アメリカの景気も悪くなってきたし……。今年は日本もたいへんだろうな。

■タナカ

20世紀と21世紀が、とくに一日、二日でそう簡単に分けられるものではないような気がするしな。たぶん2030年ぐらいになってくると、確実に何かが変わっていたりするんじゃない?

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